山崎伸治 僧侶社長をどん底から救ったのは、努力で得た信頼

自己実現タイムズ vol.1

いま輝いているあの人も、はじめは普通の人だった。起業と失敗を経て、自分らしく生きる道を見つけた人にインタビュー。自分と向き合う一人時間に何を考えて実行していったのでしょうか。自分で幸せをつかみとった人の現代のシンデレラストーリーをお届けします。今回は、経営コンサルタント・投資家でありながら僧侶・慈友さんとしての顔を持つ山崎伸治さんに話を聞きました。

山崎伸治

1970年大阪府生まれ。京都大学を卒業後、日本長期信用銀行やベイン&カンパニーを経て2000年に株式会社シニアコミュニケーションを創業。2005年に東証マザーズに上場を果たすも、2010年に上場廃止に。その経験を活かし、経営者や経営コンサルタント、投資家として活動。2020年には得度し、僧侶・慈友に。2021年から慈友名義でYouTube「上場社長チャンネル」を開設している。
撮影:三橋優美子

「上場と上場廃止を経験して立ち直った人って、なかなかいないでしょ」と穏やかに笑う山崎さん。華々しい成功とどん底ともいえる失敗を経て、現在は自らも会社経営をしながら、経営コンサルタントや投資家として大手企業やベンチャー企業をサポートしている。さらには、僧侶・慈友としてYouTube「上場社長チャンネル」を開設し、社長に学ぶ成功の法則や人生との向き合い方を発信中だ。

京都大学を卒業し、長銀や外資系コンサルティング会社を渡り歩いたとは、絵に描いたようなエリート街道に思える。しかし、銀行員時代もコンサルタント時代も相当苦労したと言い、「コンサルに転職した当初は、同僚と話していても議論で歯が立たない。正直、自分が一番頭が悪いと思いました」と振り返る。その後のがんばりで会社を創業して上場するまでに成長。しかし、2008年のリーマンショックによる売り上げの急落を穴埋めしようとルール違反を行い上場廃止に。「世界が全員敵に回ると思った」というが、立ち直れたきっかけは、意外にも取引先からの言葉にあった。

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学生時代の自信が玉砕、厳しかった銀行とコンサル業務

小学校の頃の夢は「総理大臣になること」だったという山崎さん。こうした夢を具体的にする人は少ないが、山崎さんは高校生の頃に「35歳までに上場企業の社長、40歳までに大阪府知事か京都府知事、44歳までに史上最年少総理になる」と決意。大学時代は、持ち前の好奇心とバイタリティで学生起業家として大学生向けの商品・サービスの開発に奔走した。社会人のスタートは、そのままベンチャー企業の社長になるか、国家公務員になるか、一般企業へ入社するかの選択肢のなかで「自分に最も足りないものが伸び代になる」と考え、日本長期信用銀行(長銀)に入社した。銀行の業務は想像以上にきびしく、苦労を強いられたそう。

「なんせ銀行は勉強が必要。預金や融資のルールも覚えなきゃいけないし、手続きも複雑。1円違ったら帰れないという世界です。しかも、長銀で指折りの怖い次長に2代連続で当たって、厳しく仕込まれました。その後も長銀ウォーバーグ証券に出向し、証券業界という新しい世界に飛び込むことに。銀行と証券は似ているようで使う用語も業務も違うので、機関投資家のお客様に電話をかけるのも怖い。新人のうちは、受話器にガムテープを貼って受話器を下ろすなと言われながらひたすら営業電話をかけていました。きつかったですね。でも、そのうち会社分析が好きという強みを活かして、独自の提案で社債を販売して、お客様の信頼を勝ち取っていきました」

銀行と証券で金融の知識を身に付けた後は、起業を見越して、コンサルティング会社に転職。外資系戦略コンサルのベイン&カンパニーに入社するとさらなる試練が待っていた。

「戦略コンサルでは、考え方をロジカルに分析して話すノウハウが求められます。自分も学生時代に事業をやっていたし、銀行や証券も知ってるから、それなりの自信はあった。でも、同僚の誰と議論してみても、どう考えても負けてるのがわかる。自分が一番、頭が悪いと思いました。でも、その頃は起業すると決めていたので、絶対に負けたくないと思ってがんばりました。当時は残業が当たり前で、帰ってからも勉強をしなきゃいけないから2徹3徹は普通。そうやって1年がんばったら、ようやくロジカルシンキングが身についた。そこからは事業や銀行で経営者の方と向き合ってきたこと、企業分析が数字からできること、証券で経済の大きな流れを体感したことなどを、仕事に活かすことができました」

こうしてベイン&カンパニーを2年で退職し、いよいよ起業の荒波へ漕ぎ出した。

創業元年は年収240万円も、5年目で上場起業に成長

山崎さんが起業するに当たって選んだのが、シニアのマーケティング業界。今でこそ、高齢者に注目した事業は珍しくないが、当時は前例も経験もない業界をなぜ選んだのだろうか?

「自分でやるなら、日本一か世界一になれる事業を始めたかったからです。僕は中学生の頃からディスコに通って、女子大生ブームの大学生時代には学生ベンチャーでヒット商品のプロデュースもしていた。人がつくった流行にのるのが嫌いで、自分で流行をつくるマーケティングをやりたかったんです。でもマーケティングの世界は、第一人者のフィリップ・コトラー先生がいて日本にもお歴々がたくさんいる。自分がマーケティングで日本一、世界一になれる分野は何かと考えると、日本は高齢化のスピードが世界一早い。シニアのマーケティングなら日本一が世界一になれる。まだ、シニアの研究は日本でもそれほど進んでいなかったのでチャンスだと思いました」

創業した株式会社シニアコミュニケーションでは、シニアの調査やシニアマーケットに関する著書を次々に発表し、まずは山崎さんがシニアの専門家になった。外資系コンサルの年収は高かったにも関わらず、起業した最初の年収は240万円。“逆わらしべ長者”と言われたという。しかしその情熱は誰にも負けなかった。次のステップでは、アクティブシニアを掲げた調査や著書がメディアに注目され、大企業からのコンサル契約や出資を得られた。さらにシニアの専門家として政府の諮問委員に選出されるまでとなり、絶頂期を迎える。

「会社を4人でスタートして少しずつポジションを築いて、3年目から成長し、5年目の2005年に一気にブレイクして東証マザーズに上場を果たしました。僕自身も上場社長の会や経済同友会にも入れて、ステージが上がった。30代半ばの若造が数百億円企業の社長になってテレビ新聞に取り上げられ、調子に乗っていた時期だったと思います」

しかし、2008年にはリーマンショックがやってきた。

「不況が始まると、大企業は広告費を削り始めます。当然ながらうちの会社の売上も急落して、3分の1になった。それを副社長だった営業担当と財務担当の2人が泥をかぶって会社を守ろうと、自分のお金で売り上げ補填をした。僕も自分のお金を会社に入れるのですが、本来は役員貸付のところを売上として計上したので、有価証券報告書の虚偽記載というルール違反に。それが上場廃止を決定づけ、責任をとって退任。格好をつけて手元の株を売らなかったので、借金をして会社に入れた2億円の負債をそのまま背負うことになりました」

会社の社長を退任して職を失ったうえに、2億円の借金を抱え、山崎さんはどん底にまで落ちた。

日本の国力を維持するためのサポーターに

当然ながら大バッシングを受け「世界が全員敵にまわる」と思うくらい窮地に立たされた。しかし、意外なことにそういう人ばかりではなかった。

「もちろん去っていく人も多かったですが、銀行やコンサル時代にお世話になった方、経営者仲間や先輩経営者の方々からたくさんのご連絡がありました。『自分がやったことに対しては逃げるな。そうすれば誰かが見ていてくれる』と声をかけていただき、全てを受け止めて、自分の会社の顧問の話をくださる先輩経営者の方もいらっしゃいました。本当にありがたかったですね。それぞれの会社のコンプライアンス担当役員の方と面談して、コンサルティングを請け負うこともできました」

苦境の山崎さんを救ったのは、それまで努力して築いてきた信頼だったのだ。がんばりは自分を裏切らなかった。山崎さんはこれを足掛かりに、「社会のためになる事業のサポート」を自分の仕事として考えはじめる。

「自分で事業をつくるだけではなく、経営者のサポートにまわって戦略構築や数字分析の部分で力になる仕事をやろうと思いました。それから僕が上場と上場廃止で得たものはベンチャーの若手社長に生きた経験として語れる。現在は、大手企業の顧問をやりながら、日本とアジアのベンチャーに投資して彼らが上場する手助けをしています。大企業がもっているブランドや人材をベンチャー企業に橋渡しするのも僕の役目。大きなテーマとしては、日本の国力を維持して子供たちに託すこと実は、“総理大臣になりたい“と考えていた頃と信念は変わっていなくて、改めてそれに取り組めているという実感があります」

自身の思いや経験を社会に還元できている今、充実の時期に入ったといえる。山崎さんの考える、人口減少下の日本が国力を維持して価値を高めていく具体的な方法としては、①労働力不足解消(女性、シニア、障害者、外国人労働者の活性化) ②日本を海外にアピールするためのブランディング ③教育の機会均等 の3つに注力している。大企業やベンチャー企業だけでなく、多くの人にこの考えを広げられるよう、2020年に得度し、浄土真宗僧侶の慈友に。2021年にはYouTube「上場社長チャンネル」を開設。エンターテイメントを交えながら、成功の法則を伝えている。人生の浮き沈みを経験し、立ち直った山崎さん。そこで得られた教訓を教えてもらった。

「人生のどん底で助けてくれたのは、僕が努力しているのを見ていた人たちです。能力そのものより努力する過程が見られています。証券会社時代の僕は機関投資家の方から見るとヒヨッコだったはずです。でも、社債を売るために自分なりに分析レポートを作り、持っていった姿を見て発注してくれました。いまでも、“あの時はかわいかったで”と言われることもあります。

成功するためには、圧倒的な努力が必要であると思います。会社員でただ与えられた仕事だけやっていても、チャンスはありません。一流になりたければ、自らを過酷な環境におかないと絶対に成長できません。20代、30代の失敗は経験でしかありません。1回、2回跳ね返されて当たり前。3回目でやっと突破できる世界です。諦めないでチャレンジし続ける気持ちが大事です」

山崎さんが表参道で展開しているインキュベーションシェアオフィス・サクラサクは女性経営者が多いとのこと。そんな目線から、最後に女性が独立するためのエールを聞いた。

「もちろん人それぞれなんですが、男女特性を傾向値で見ると、女性経営者はコミュニケーション能力が高く、捨て身で思い切ったことをやれる人が多いですね。お金に対して誠実なのもアドバンテージです。ただ男性経営者と比較すると、全体の構造を俯瞰して分解する能力に欠ける。どうしても1点で見てしまう傾向にあります。また、気分の上がり下がりがある人も多い。そういう優位な部分と不得意な部分を理解していけば、勝ち筋は見えてくる。現在の日本は人口減少期であり、社会がソフト化して女性的な視点が求められています。いまは経営者全体の10%しか女性経営者はいません。でも時代が求めているわけですから、早く経営者の半分が女性になる時代が来てほしいです。ぜひ、恐れずチャレンジしてみてください」

山崎伸治さんのミータイムマネジメント

「1日の終わりにメモを見返して、振り返られるようにしています。この振り返りが次の自分に活かされます。僕の場合、次から次に打ち合わせが入っているので、打ち合わせ中にメモを取れるときは手帳やノートに書いておいて、メモが取れないときは終わった後の移動中にスマホのメモに思い出して書いておきます。それを1日の終わりに見返してポイントを押さえて整理する。良いと思ったことを聞き流してしまう人生と振り返れる人生は全く違うものになっているはず。1年後に大きな差がつきます

編集後記

山崎さんがどん底まで落ちたとき、声をかけてくれたのは努力やがんばりを認めてくれた人達でした。努力というところでもう1つ驚いたのが、創業した会社が経験のないシニアマーケットだったというところです。まずは自分が専門家として第一人者になって世界一になるという覚悟は、それまでも異なる分野で努力してきた経験が後押ししたからでしょう。1年目は年収240万円であったとしても、絶対にかけあがれるという志も胸を打たれました。努力した経験は、自信にもなるし、失敗したとしても助けになる。そんなことが心に残りました。

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